アンケートから生まれた6つのキーワード
中村チームの企画「眺望的ナル気配」の制作において、中村さんは完成された作品やパフォーマンスではなく「プロセス」を体験してほしいと語っています。本企画が採用しているスライドショーという形式やまちの人々へのアンケートを通じて選ばれたキーワードにも、プロセスや過程、通過への意識は強く反映されているでしょう。そこで今回は本企画がいかなるプロセスを経て生まれたものなのか知るべく、作品の制作に携わった4人のメンバーからコメントを寄せてもらいました。
日時:2020.11.15
中村チームの企画「眺望的ナル気配」の制作において、中村さんは完成された作品やパフォーマンスではなく「プロセス」を体験してほしいと語っています。本企画が採用しているスライドショーという形式やまちの人々へのアンケートを通じて選ばれたキーワードにも、プロセスや過程、通過への意識は強く反映されているでしょう。そこで今回は本企画がいかなるプロセスを経て生まれたものなのか知るべく、作品の制作に携わった4人のメンバーからコメントを寄せてもらいました。
今回、編集としてチームメンバーに加わらせていただきましたが、最もエキサイティングだったのは作品制作の過程そのものでした。
地域の方々からお聞きした、土地に伝わる記録や歴史、すでに真偽が曖昧になってしまったもう確かめようのない個々人・家族の記憶。
これからも残っていくことや、きっとこのまま失われてしまうことなど、ちょうど舞台となった街の地下に眠る暗渠のようなエピソードたちが混ざりあい、中村友美というひとりの舞台美術家の身体を通り抜け、さまざまな試行錯誤を経て“模型”という新たな形に生まれ変わっていく。
彼女は普段の舞台美術の仕事を「作品を旅するようにつくり上げていく」と説明していましたが、まさにぼくも旅人のような視点で架空の街を通り抜けていくことができました。
願わくば、観客にとってもこの旅が、奇妙な味わい深い“TRIP”になりますように。
今回の作品においての"ことば"とは…そんなことを思いました。
模型に、「景」に重ねる"ことば"を考えることは、言霊一つひとつがもつ余白や余韻などを改めて感じとる機会にもなりました。
わたしたちが、当たり前となって気づけなくなってしまった「景」のなかにある「景」から立ち上がる言葉の気配を今回の創作のなかで改めて感じとることができました。個人的に「景」と"ことば"の関係性としては[3. カゴをあむこと]のスライドが気にいっています。
今回のクリエイションは、街と自分の距離感をはかり直すような、不思議な機会でした。
以前から「都市はさまざまなレイヤーを積層したものだ」と捉えてきたので、中村さんの手仕事によって生まれたミニチュアの「まち」にさまざまな景色が立ち現れ、写真で切り取られた「景」がレイヤー的に再構築されていくことに、深い共感をおぼえました。
現場で柔軟に実験できるように、さまざまな光源やアイテムをあらかじめご提案し、撮影日にはチームの皆さんと共に、「まち」の中でさまざまな発見をしながら、充実して進めることができました。
光によって空間に時間を生むことを意識して照明の仕事をしてきましたが、あらためてその作用について、深く考える機会をいただきました。
「スライド」という発表形式は、映像での作品発表が激増したこの時代に、手で写真をめくるような、時間や記憶が伸縮するような体感と、記憶のトリガーを引く機能がある、と感じます。
自分が知らないと思っていた「まち」のなかに、過去の自分のまぼろしを見つけるような、変化し続けるまちを俯瞰するような、伸縮自在の時空間をもつ作品だと思います。
「#あかり」のお役目をいただけて、とても光栄です。ありがとうございました。
今回、中村友美さんから御依頼をいただいた際に編集の司田由幸さん経由で、「街オーケストラ」のようなコンセプトでつくれないか、と承り、すぐに浮かんだのはR.マリー・シェーファーの「世界の調律」でした。
環境の音響設計(だけではありませんが)であるサウンド・スケープをカリカチュアライズした音楽をつくれば「眺望的ナル気配」のサウンド・トラックとして納まりが良いのではと考えたわけです。カリカチュアライズとしたのは音楽(特に12平均律による)にした段階ですでにサウンド・スケープとは全く別のものになるからですが、例えば歌川広重の「道潅山虫聞之図」のように音を景色のように楽しむことは日本人の得意とするところであり、記憶されたそれらは音楽としての味わいをもつものと仮定したからです。オリヴィエ・メシアンのように鳥の囀りを具象的にソノグラフィックすることはせずに、みずからの印象の方をアウトプットすることにしました。
サウンド・スケープ的な要素としてはモデルとされていた現地で収録した電車の音などをレイアウトしました。ジョン・ケージの通称「4分33秒」(『無題』)のように環境に耳を澄ませる行為を意識するのに録音メディアは有効であると同時に二次的になるが故にリアリティをリアルから切り出せることになります。
「景」を音楽にするためには定点を設けそれを多次元化していく方法もあるかと思われますが、「眺望的ナル気配」にはストーリーに類するものがありましたのでこちらに伴うことにしました。この側面においては演劇や映画の音楽制作と同じであるのですが、意識・感情の流れというものが表層化していないので調性感の強いものを避けるようにしました。撮影現場にお邪魔して模型の現物も見させていただきました。編集後の映像に前述のストーリーが顕著でしたので最終的に映画のサウンド・トラック製作として作業する形になったのですが、撮影現場であるF/T所在地(元校舎)の窓から入ってくる葉擦れの音や子供達の声の記憶が印象に混入していることと思われます。
今回の作業にあたり共有させていただいた資料に触発され、自分の暮らすいまの街だけでなく子供のころの街や仕事や旅行で訪れた街の記憶を辿ることもしてみました。眺望が空間的な距離を有する視覚行為なら、聴覚行為は時間的な距離を有するものなのかもしれません。遠くの細かな音を人は感知できないので。電車の音などの録音物を近的記憶とし音楽内に混入するものを遠的記憶として、ふたつをレイアウトすることによって「眺望的ナル気配」のサウンド・トラックとしました。
通常「作品」といえば完成されたものを指しますが、作品形態が多様化した現代においては、必ずしもできあがったものだけが作品となるわけではないでしょう。むしろセノ派が実践してきたまちの人々とのコミュニケーションを振り返ってみれば、そのプロセスにこそ豊かな可能性が眠っているといえそうです。。
それは「眺望的ナル気配」に限ったものではなく、セノ派が発表している4つの企画すべてに共通しているものでもあるはずです。4つの企画は単にまちの中に新たな〈景〉を立ち上げているだけでなく、豊かなプロセスを通じて、まちと人やまちと舞台美術の関係性をゆるやかに解きほぐし、またべつの形で組みなおしているのかもしれません。
テキスト:もてスリム / 写真:泉山朗土